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                                           2014.9.17

現代の大学人列伝―その1
小島茂教授を弔うの譜/かかる知識(arts)人ありき


池 田 憲 彦
元拓殖大学教授


  8月22日の夕方に帰幽したという。大学研究室で迎えたから、後述の軌跡からすると、一種の戦死である。享年61。現代の日本では早すぎる旅立ちだった。小島教授は静岡県立大学経営情報学部、大学院経営情報イノベーション研究科後期博士課程担当。
  未亡人から電話があったのは9月1日の夕方。共通の知友である徳松信男元教授(常葉大学)から悲報のあったのは、25日であったか。突然の訃報に愕然とした。それは、19日にメールでやり取りをしていたからである。偏屈で狷介(けんかい)な気性のわたしにとっては、数少ない貴重な知己の一人だった。

  以下の記述に見られるように、非凡な能力を持前の努力で活用して、独特の業績を挙げていた。本人は決して口外しなかったが、学内ではとかくの評もあったやに漏れ聞いている。反論のできる立場で無くなったので、これからあれこれ風評が起きるのも、浮世の性(さが)であろう。
  人は、大体において多面性を有している。だから、接した範囲でしかわからないのが普通だ。私の受けた印象から、副題に即して、その異色な軌跡と学識(arts)の意味するものを伝えておきたい。

  文部省の留学奨学金を得て1977年に米国留学、1年で修士号を取るような過度の集中をして胸を痛めたために、呼吸器系に疾患があった。完全治癒していなかったのであろう。ディプロマミル(学歴商法)で、インテリ詐欺師たちと2004年頃から3,4年間にわたり孤軍奮闘、激しく戦ったのも不調に拍車をかけたようだ。
  本人の弁によれば、1997年頃に医者からもうもたないから覚悟した方がいいと言われたという。手術をしても生き延びる確率が多くないと知ると、手術を拒んだ。そういう果断なところがあった。肉体的に弱弱しく見えるものの、その気性は不義を憎み、孤立していても敵とした相手に対して屈せず、行動力に富んで闘いを厭わなかったのは、ディプロマミル問題での取り組みにも見られる。

  青野友太郎氏と静岡で一緒に昼食をしたこともある。新静岡学園の理事・高校長が設けてくれた宴席だった。ディプロマミルについての著作の書評を依頼されて、この場“私論公論”に発表した(vol.5/2009.3.3)。これを主題にしたセミナーを開催しないかと青野氏に提案したことがある。世間で少し問題化し始めた頃だったので、青野氏も前向きになったが、折悪しく小島教授が、前掲の闘いの最中で小康状態だった病状が悪化し、入院して中止に。
  とにかく異能の人であった。多方面の活躍から、貴方はご自分を何者としているのですか、と聞いたことがある。画家です、と応えられてあっけにとられた。御父君が画家で、九死に一生を得たニューギニア戦線での惨憺たる情景を復員後に描いた遺作を見せられたことがある。その血筋が流れていたのであろう。教材にもご自分の描いた登場人物や講義内容を視覚化する技能を遺憾なく発揮していた。人物にはスターリンからルーズベルト、チャーチルから、桂太郎、後藤新平、新渡戸稲造、吉田茂など、広範囲に及ぶ。

  同教授の要望に応えて、年一回、学部学生を対象にした国際戦略論のトーク・セッションに参加。最初のおり、近代日本の関わる東アジア史の一端だったか、講義録をまとめて、それを読み上げたら、次回からそれはしないでほしいと注意された。学生が知らないことばかりだから、私の問いかけに応える形にしないと、学生が話題の内容に入っていけない、というのである。三度目の際は、教授に応える私の内容が大学院レベルだからと、私にとっては苦情というか褒められたのか不明の印象を述べられ、いささか憮然としたことがある。
  二度目だったか、日露戦争に触れた。後の質問で、中国人女子留学生から、他国の軍隊が中国の領土(?)で闘うようなことがあったのか、それが問題にならなかったのはなぜかと聞かれて、歴史認識の断層に困った。戦端が開かれてから、清朝は局外中立を宣言した、と応えたが、不要領のようだった。

  私の帰郷後にできた縁で、今は幽明を異にした、この方も異能の人、色彩を専門とする松永一生氏がいる。少子高齢化社会の深化に対応した郷里の清水の地勢・地形と気候、風土、地経学を活かした総合デザインを描いた。この論稿は、今は廃刊された総合雑誌『自由』に発表された。私は、その論策を高校時代の同級生で元清水市役所OBの池田幸史に紹介した。池田は現役時代に地域社会づくりに直に取り組んでいたから。すると、彼が社会人学生として受講していた縁から、小島教授を紹介する労をとってくれた。大学のある草薙の喫茶店で4人が最初の出会いをもった。
  教授と私は、互いの関心が日本を取り巻く国際環境にあることを知った。会う機会は年に数回で少ないものの、現在の趨勢に関わる歴史認識で共有するものが多いことを、メールでの交換から確認したのである。それからは、急速に関係が深まったように思う。

  私は、冒頭で挙げた徳松教授を数年前にモンゴルに連れていった。同教授は石垣島出身。尖閣諸島が中国のものだという北京が広める偽情報に満ちた巷説に、猛然と反発していたからである。防人の気概を漲らせている琉球古武術の修練者でもある。そこで、「尖閣問題はモンゴルにも無縁ではない」、という論題で、私の関係している大学で講演。次いで、その所説を政府系の英文週刊新聞Mongol Messenger に発表。丁度、APPU(アジア・太平洋国会議員連合)の年次総会がウランバートルのジンギスカン・ホテルで開催されていて、その報告が掲載された記事の後の紙面に論説として掲載された。それを予め知っていてのウランバートル訪問と投稿かと、徳松教授に聞かれた。
  トーク・セッションの際に、徳松教授にも声をかけて聴講に参加してもらい、同紙の論稿も紹介した。二人は意気投合。その後、小島教授は、1980年代にケ小平の意を受けた劉華清が戦略化し、ソ連が崩壊した90年代以後に急速に表面化した、中共党と中国軍部が太平洋進出の前段で展開する第一列島線と第二列島線のうち、前者に沖縄群島そして尖閣諸島がすっぽり内海(海洋領土)化していることを憂慮。二度の現地調査に基く見解を、産経新聞の提携する地元紙「八重山日報」に9回にわたり発表したという(2014.03~04)。私の見せられたのは3,4回分だったが。徳松教授は、同紙の論説委員であったこともある。
  ここにも、尖閣問題の意味を独特の視点から絵図化した論説が掲載されている。八重山日報のサイトで見ることができる。小島流儀の接近による国際戦略論からの解明が提示されている。今となっては、肺に例えて中共国家の海洋浸蝕を絵にしているところが、暗示的であるものの、眺めると辛い。

  静岡県では県、市など地域社会づくりのアドバイサーとして著名であったようだ。自分の生活しているローカルの場を大事にして、その場に直入している。地元の兎餅を活かした創作展をホテルでやっているから見に来ないかとメールが来た。その多才多芸ぶりにはいささか辟易して、敬して行かなかった。
  棲んでいた草薙の土地柄は古い。日本武尊(ヤマトタケル)が東征の途中、襲撃者に点火されて燃え盛る枯草を剣で払って難を逃れた。その故事を記念しての草薙神社がある。せっかくの故事来歴を背景にし、草薙周辺の商店街活性化にも取り組んでいた。異業種の店舗の主人たちとの連携も深いようだった。某小大名が参勤交代の際に珍重したという、幕末時代のすしネタを創作再生した「魚竹寿司」の親方など。
  JR駅前のシンボルとして、自作の像「考える犬」シコウを設置するのに尽力した。渋谷駅のハチコウの半分としてシコウと名付け、「思考」を含める、さらに、ロダン作の銅像「考える人」の合体という。夫人は、子供がいないために、あの犬が私たちの子供です、と言った。なんとも応えようがなかった。
  ある日、草薙で昼食を一緒に摂った後に、教授の描いた絵画の展示している店舗に連れていかれたことがある。散文的な私には、感想の述べようがなかった。ただ、同教授の醸し出す雰囲気の基調である透明感が活きた、地域を題材にした淡白な風景描写であった記憶がある。
  また、そのローカリティの追求は、清水の地場・港を活かし、海洋を通して外地と繋がっていく。小島研究室では、2006年から翌年にかけて、「静岡・清水台湾中華街」を、市役所前で手掛けた。街頭イベントの演出である。

  葬儀は親族だけで行ったという。線香を上げに行きたいと電話で夫人に言うと、主人の生き方から神式で執り行ったので、その希望には添えないと応えられた。訝る私に、主人は靖国神社崇敬奉賛会、明治神宮崇敬会の会員であり、皇室を大切にされていましたから、その遺志を重視しての結果ですと、気丈に言われた。そういえば、8月15日には靖国神社への参拝をされたことを聞いたことがあった。現代では死語となっている古風な言い方をすると、孤忠を貫いて帰幽したのであろう。

  今となっては最晩年になるが、昨年に刊行した直近の講義録や取組みを収録した『日本の心と姿』(小島アートラボ発行。2013)の第2部になる創作論文に、三島由紀夫論がある。「日本的な事件〜三島由紀夫の死とアイデンティティを巡って」では、三島と交遊のあったアイヴァン・モリスIvan Morrisの訳題『高貴な敗北』(“The Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japan”1975)の基調にある日本人像に共感を示しつつ、日本文明史の諸相に流れるアイデンティティを、三島の行為と死から捉えようと試みている。この模索は、同時に教授自身の一体性と事件がどのようにつながっているのかの追求でもあった、と思う。
  このような言い方をすると、敗戦後の来し方で現在も知識人間で根深い一般的な風潮では、復古調に受け止められる。だが、小島教授は、想像以上に国際的であった。それは、カリフォルニア大学のバークレイで、社会学のPh.D. を取得しているところに見られる。留学3年目にスタンフォード大学から奨学金を提供されて大学院に在籍し、大学当局からは学位の取得を勧められたが、馴染めず、バークレイに移った、と漏らしたことがある。
  本人の言うところでは、学生生活はエンジョイした。それはともかくとして、学風に馴染めなかった理由までは聞かなかった。半生の自画像を自作品とともにまとめた『絵ごころ、文ごころ』(2012)のプロローグでは、数量志向の社会学が肌に合わなかった、と記している。この意味するものは深い。
  米国防長官マクナマラによる数量偏重の戦略学で展開されたベトナム戦争が、1975年に米軍の撤退という終結をしていたにかかわらず、大学の社会学では数量志向が根強かった背景は深刻である。米国の知識社会のそうした偏重は、現在でも経済、政治の主流で活きているのではないか。懲りないのである。
  留学当時のクラスメートで在米日系人のRonald Shinomoto氏との誌上対談の形式をとった後年の共著"Japanese Americans' View of Japan and their Historical Awareness, "(2013)や、"Japanese Americans' View of Japan and their Ethnic Identity, "(12)にも、そうした弊害から来る見落としの確認があるように覗える。ここには数量思考では割り切れない知の領域が広がっているからだ。これは、あくまで私の推理だから、小島教授の思いとは別であり、かつ無縁である。

  米国での留学を通して自分を「アート人間」(自称)と覚醒した小島教授には、異文明の狭間にあって、余人には覗うことのできない魂の葛藤があったと思われる。1945年における対米敗戦後に占領下に置かれたところから始まった、非軍国主義化である「民主主義的傾向の復活強化」という名分に基いて、占領政策が展開された。そこで、便乗日本人も加わっての解体を余儀なくされた日本人の「心と姿」の在り様とは何かを、他人事ではない我が事として追い求めていたのではなかったか。
  そこには、ボーダーレスを視野に入れた確かな複眼的思考が息づいていた。 だから、「日本の心と姿」の講義は、国境を越えて通じた。それは、インド人留学生が、感激をもって教授からの学びの感想を書いているところに覗うことができる(前掲『日本の心と姿』。10〜13頁)。ここには、教授の講義が普遍性をもって通じていたことが示されている。この留学生のレポートを読むと、教授にも教室の生活においてだが、至福の折もあったことがわかる。
  思弁性を極力排して生身の具体性と実証性を重んじる教授は、このような言い方をされるのは好まないだろうが、K・ヤスパース流に言えば、「哲学的世界定位を通して実存開明」をするための、人生を賭した試みがあった。それは、前掲の三島論の「はじめに」で、「関心は、三島が自分を何と同一化させ、何に最も価値を置き、何に殉じようとしたのかという点、つまり死とアイデンティティの関わりにある」(前掲。63頁。)、と記しているところに表出している。

  だから、或る時のやりとりで、一橋大学社会学部出身の出自を、法学部出身の石原慎太郎を念頭に置きながら、しかしその名前は出さずに評価したら、猛然と反発された。自分のアイデンティティにとっては、一橋大学出身であることは全く関係は無い、と憤然と断言されて二の句が継げなかったことがある。自分のそれは、バークレイである、学友会の終身会員会費を納入済みでもあると、頑是ない少年のように力説した。そのあまりの語気にたじろいだ私は、沈黙して、ビールを飲んで間をとるのを余儀なくされた。
  夫人は、そのことについて、卒業証書が当時の学長であった都留重人であったことが許せなかったからと聞いたことがあると、教授の写真を飾った神式の祭壇の前で聞かされて、得心がいった。その潔癖性には満腔の同意を感じた。この私の記し方はわかる者にはわかるとしか言いようがない。多少の暗示をすれば、都留は米議会非米活動委員会に喚問された際に、長年の友人で政治的な同志でもあった(?)E・H・ノーマンを裏切っている。
  異国の議会での答弁には、都留自身のアイデンティティがあるのかどうか、どういうたぐいのアイデンティティなのか、その知の意味するものの深刻さを思う。都留は、流ちょうな米語で質問というか詰問に応えているはずだ。速記録から彼の有した知の国際性の内容解析を、比較思想の見地からそろそろ誰か論じないかと思う。米国に占領されたことによる戦後民主化に協力または追従した「知識」(?)人の生態を端的に示している事例であるから。だが、この種の国際性が猖獗した背景の解明は、ソ連が1991年に崩壊しているにもかかわらず、思想史的にまだまだ開拓の不充分な分野でもある。
  ともあれ、この都留の生き方というか身の処し方、「姿」は、近代の日本文明から見れば、一つの負の特徴である。私見を述べれば、都留と南原繁の二人の軌跡は、1945年9月2日の日本の降伏調印から始まった、戦後日本の大学人の情けない典型例だ。南原は占領下の学制改革で、帝国大学から東京大学になって最初の総長に就任した。昭和21年の紀元節集会での演説は、歴史に遺すべきであろう。紀元節元年を謳っているから。そこには、「占領下にある」という事実をさておいた異様な知の「姿」がある。(注。文末参照)
  これでも法学博士である。その認定をした近代の大学を含めた日本政府の見識が、その程度であったことがわかる。南原は、古来の日本文明は否定すべきという、「上滑り開化(欧化)」(夏目漱石)または外発的な開化を万能視する確信犯だ。だから、米国が演出する統治の原則には全く異議を唱えていない。
  ノーマンは、追いつめられて自殺した。自分の知性に殉じる、それなりのプライドがあったのであろうか。それとも、コミンテルンの走狗とみなされて、弁明は不可能な状況に至っていると、我が身の前途を見限ったのか。しかし、都留は、その後も見識ある者として、日本のアカデミー世界で便々と生きた。教授は、そうした都留の生き方が許せなかったのである。都留については、教授と同じ感受性を有してよかったと、しみじみと思っている。

  教授にとっては、1945年が起点ではなかったと思う。文明論的に観れば、45年という日本敗戦には、その背景がある。その背景も1868年という明治元年から、その遠因を訪ねていけば、徳川政権による鎖国政策前の大航海時代と同時代にあった織豊に至る戦国時代がある。さらに、シルクロードと結びついた古代がある。そうした長期的な射程の上に、日本文明の来し方と行く末を包括的に捉えようとしていたのではないか。その視座は、ローカリティを見据えつつ、同時にグローバリゼーションの力学のもつ意味を深め見通して、構成されていた。そうした視座での「国際戦略論」だったのか。
  その学問的な野心は雄々しいものだった。だが、体力がついていかず、中途で挫折しなければならなかった。『文明の衝突』(1996)の著者S・ ハンチントン流に言えば、the West とthe Rest の二つの世界を視野に入れつつ、太平洋世界にある日本に立脚すると、近代での劣勢を凌駕しようと海洋進出を加速している中共に対峙して、日本はいかにあらねばならないか、を直近の問題意識としていた。
  そのフィールド・リサーチの成果が、前掲の八重山日報に連載された論説記事と、それに基づいた誌上対談:「尖閣問題と東アジアの安全保障」徳松信男と共著(「経営と情報」、2014.3)である。今から振り返ると、この作業では余程、体力を消耗したようだ。中共流にいうと「戦略的辺彊」から核心的利益に格上げされた海の国境が危ういと認識しての、肺疾患を抱えた肉体を気力だけで駆使した現地踏査を想うと、やりきれなさがこみ上げてくる。ここで踏み止まらないといけない、と思い定め、警世の役割の追求を我が身に課したのであろう。
  非軍国主義化を名分にした「民主化」、という精神の調教化による成果なのか、長らく本来の国事意識が希薄になり、行く末で亡国を重ねる可能性に至る危機感の希薄が日常化している日本社会の上層部。アカデミーの世界も同様である。その中で、教授はその姿勢において、大勢に背を向けて、国士の気概を内面で発酵させつつ持し続けた一人であった。
  今の若い世代に伝えるには、教授は、ヒーローであった、と言った方が通じるであろうか。それも隠れた(!)ここで用いたヒーローとは、麻倉未稀の歌ったそれにあるYou need a heroではなく、ボニー・タイラー“I need a hero”の歌詞にあるヒーローである。
  今年の夏季、事情あって徳富蘇峰の『終戦後日記』四冊に取り組んだ。
  霊前に別れの挨拶を終え辞去しようとしたさい、玄関の靴箱の上に発注していた本が数冊積み重ねられていた。高野静子による蘇峰への中江兆民から松岡洋右にいたる書簡集の分厚い新本があった。教授と問題意識の共有している部分の多いことを、改めて知らされた。
  卓抜した英語能力を活かした膨大な読書量から、そのせっかくの複眼的な探究心の成果が、これからの日本と太平洋、さらに地球社会に活かされなかったのは、惜しみても余りある。日本を取り巻く国際環境が緊迫化してくる10年代の後半、日米両国にとって必要な人材であった。それは、教授の事態認識に働くインテリジェンスが、これまでの軌跡に見られるように多くの試行錯誤を経て、自立しているアーツになっていたからである。孤ならず。
  また、貴重な人を失った。その喪失感は深い。
                            (文中、敬称を略した場合もある。他意はない)
                                              <平成26年9月12日>
(注)南原繁に典型例を見る占領中の大学人に見られる狂態については、昭和史における文部行
   政への政策評価の一環として、私の報告『占領下における教職“追放”(教職員適格審査)』
   を参照。2007年8月付。KKJ“私論公論の場”に発表している。Vol.14。とくに、二部と四部
   を参照。

[編集部より]
このたび「現代の大学人列伝」シリーズをスタートしました。今日「大学人」は死語となりつつあります。是非とも、キーパースン各位のご縁ある人物との「交遊抄」をお寄せくださいませ。

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