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                                           (2013.8.20)

過去に学ぶインテリジェンス 日本はなぜ敗れた
〜日本人の世界・アジア近現代認識の隘路―1〜


池 田 憲 彦
元拓殖大学日本文化研究所 教授
附属近現代研究センター長


  八月十五日の昨夕、青野代表から東京在住のコラムニストW・ペセックの『安倍首相の歴史的評価、鍵は経済より原発事故対応』(十三日付 bloomberg.co.jp)のコピーが送られてきた。元来、日本への偏見に満ちたペセックの論評は不快のタネの一つだが、今回の論評には頷けるものが多かった。それは、昭和史を瞥見すると、主題の経緯が新しいものではなく、繰り返している側面に留意せざるを得なくなるからだ。

  八月に入ると、靖国神社参拝の是非が騒がしくなる。とくに十五日を迎えると、社前にはテレビのカメラが回り、英霊を靖んずる情景とは真逆。現在の日本人の有する精神状況の一端を象徴的に見せる。
  この時季を迎えると、昭和二十(一九四五)年に、日本はなぜ敗れたのかに関心が赴く。再び敗れないためには、何を考えどう対処すればいいのか。
  昭和の戦争では第二次大戦を含め、多くの軍属を含めた将兵が戦死、戦病死した。また、民間人も老若男女が犠牲になった。その数、三百万人余。数字にすると無機的になるが、年齢を問わずそれぞれの人生があった。

  戦争に至る前史の評価を巡って、定説は無い。大道を闊歩しているのは、敗戦五十年に際し当時の首相村山富市が閣議決定で出した俗に言う『村山談話』。今になっても問題化する「歴史認識」(?)の一里塚。余計なことをしてくれたものだ。
  その当時の渦中にあった者たちの記録は、後世にとって多くの示唆に富む。それは、敗者の記述だから。大道には勝者の見方が横行する。村山談話もその追従の一つでしかない。本人がそれに気づいていないところが、当人は勿論のこと同時代の日本人にとっても悲喜劇。村山が私人であったならともかく、首相の立場での発言であったから問題。官房長官の『河野談話』と同じ短慮の妄動が、現在になって暴走して、日本人の立ち位置を混迷に導いている。
  こうした無知蒙昧な知性(インテリジェンス)無き振る舞いが横行する由来は、彼らが初めてではない。昭和の戦時にも当事者間にあった一事例を、此処では取り上げたい。

  大東亜戦争を日本側で展開したのは大本営であった。その中で情報参謀をしていた堀栄三という奈良県西吉野村(現五条市)出身の方がいる。戦後は自衛隊で情報畑に参加。自分の来し方を反省も込めて記したのが『大本営参謀の情報戦記』(文春文庫)。その一節一節が肺腑を抉る内容に満ちている。
  堀参謀を部内や前線で育てた佐官や将帥がいる。同書によると、情報では杉田一次大佐。杉田は後年に自衛隊で陸上幕僚長になった隠れた英傑。
  その彼が、信じられない一節を痛恨の記録『情報なき戦争指導/大本営情報参謀の回想』(一九八七年。原書房)に記している。

  シナ大陸で当時の政府を構成していた蒋介石率いる中国国民党の国軍には、昭和二(一九二七)年からドイツ国防軍による徹底した軍事協力があった史実。ナチス政権成立(一九三三年)以前の話。しかも、第一次大戦後の制約下に置かれたドイツ国防軍の再建を担った、ゼークト将軍まで昭和八(一九三三)年に招請し、日本軍にいかに対抗するかの指導を二年にわたり受けていた。
  蒋介石が日本軍への劣等感を払拭できると予感したのは、ゼークトの指導からでは? かれは、現地踏査の上で、「日本一国だけを敵とし、その他の諸外国との親善政策をとり……」(同書五十七頁)と教唆。

  ドイツの蒋介石政権への支援から、杉田は、「ある意味では支那事変は日独(軍人)間の斗(ママ)争であった」(同五十八頁)と記す。なぜなら、一九三七年七月の盧溝橋事件以後の上海事変で、軍事顧問団は督戦しているくらいである。同年十一月の日独伊防共協定の調印によって、問題化するのを懼れてか顧問団は帰国した(因みに、日独防共協定の調印は、前年十一月)。かれらの活躍とその意味するものを、日本の参謀本部などの情報機関は把握していなかったと、杉田は同書でいう。それが事実としたら、この敗軍の記録に言葉を失う。

  同書は、当時の参謀本部や陸海軍の中枢は、そうした経緯に関心を払わず、ヒトラー率いるナチスの対外進出に幻惑されて、太平洋の対岸にある米国の潜在的な戦争遂行能力を軽視して、対米戦にのめり込んでいった経緯を追っている。そこに見られる収集された客観情報の無視、軽視、操作、隠蔽の数々には、暗然とさせられる。組織内での出来ごとだけではなく、同時に陸海軍による組織ぐるみの国務と国民への、結局はだましが公然と横行しているからだ。

  杉田による当事者としての記録を読む限り、占領下から主権回復後も首相をやっていた吉田茂が、自衛隊の前身の警察予備隊、保安隊で、旧軍本流の採用に異様なまでに拒否を貫いたのも首肯できる。現実と「想念」の分別が定かでない思考の劣化した旧軍本流の排除こそが「新国軍」の基礎、と確信していたのだろう。とくに陸軍大学校から昭和七(一九三二)年に出た『統帥参考』を踏まえる者たちを。

  その思考の病理性を実証的に完膚無きまでに暴露したのが、大岡昇平による『レイテ戦記』(中公文庫三巻)。彼はミンドロ島に派遣されていたので、レイテ戦には参加していない。同書によると、レイテ戦に投入された陸海軍将兵九万数千、生還者二千五百。消耗率九十七パーセントという。大半が補給のないところでの栄養失調からの餓死。作戦指導のでたらめさを示している。同じ轍を、すでにニューギニア戦線で踏んでいるにもかかわらず。因みに、数字には諸説あるが、この戦線では二十万人が派遣されて、生き残った者は一割。やはり、大半は餓死。


  ペセックの東電福島事故への東電だけに限らず、原子力村の住人による未必の故意、さらに菅首相(当時)による誰の入れ知恵か部分的な行政介入による中途半端な対策が安倍政権にも引き継がれている現実への痛烈な批判は、十分な説得力がある。もたれあいによる無責任体制からの脱皮は、海外から独立監査人を招致してやれという彼の提言は、今からでも遅くないと思う。昭和史の悲劇と現在の福島原発事故と事後の取り組みの背後に見られる共通性を軽視してはならない。

  いずれの場合にも共有するのは、当事者能力の是非と共に、その意味内容の理解に欠陥があるということだろう。
  そういえば、昭和史の悲劇について、すでに半世紀余経っているものの、いまだに包括的な「失敗の研究」が企図されていない。理想的に言えば、吉田が主権回復後に現憲法の破棄宣言とともに退陣して、国家事業として取り組めば、と思うのも真夏の白日夢!
  暑いな〜。そして、ペセックの指摘に寒くなる。

(本稿は関西で発行されている非営利の月刊ミニコミ誌に同じ題名で9月号に掲載されるものを、前半部分で再録している。青野代表の慫慂に負けて再編集して記した。八月十六日)
                                       <つづく>


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